2015年3月6日金曜日

コトバの持つジレンマ

私にとって言葉は、単なる記号です。モールス信号と何ら変わりない。
本当に、それ以上でもそれ以下でもない。
読書感想文や文芸部の活動などでの創作活動もしていますが、やはり言葉は使えば使うほどその『記号性』を痛感するはめになります。
朝焼けの色合いを言葉では言い表せないとこぼした小説家や、言語が伝達できる本当の情報量は皆が思っているより圧倒的に少ないと主張した研究者。まさにその通りだと思います。

我々はコミュニケーションをとるために言語を発達させてきた!
それは間違ってはいないかもしれません。
しかしよく考えてもみて欲しいのです。

鳥のような単純なパターンでの鳴き声で困らなかった時代もかつてあったでしょう。
言語が複雑化したのは、単に伝えたい内容が細かくなったからです。
では言葉をどんどん作りましょう。共有できる情報を増やすためにね!
しかし。です。
詳しく何かを語ろうとし、言語のみを利用したところで、所詮伝わるのは共通認識記号の内包する小さい意味でしかない。

結論を語る前に、私の話をします。
最近、自分の心の内を話すとき、詰まったり黙ったり泣いたりすることが増えました。
まだ昔はスラスラと説明できたのにも関わらず。
理由はズバリ『伝えたい内容が細かくなったから』。
例を挙げれば、Coolを『冷たい』『すずしい』『かっこいい』と訳すとします。
しかし、『冷たい』の中にまだいくつか伝えたいニュアンスが詰まっているので、それを表すための記号をどうにかして見つけようと努力する。私は英語、日本語の他の言語を解さないので、これ以上細かくして相手に的確に伝えることができなくなるのです。
仮にもし私が(どんな言葉であれ)、何かしらぴったりな表現を見つけたとしても、そんなに細かい記号では相手が既知のものであるかなど不確かです。

つまり、言葉は詳しく細かくなればなるほど、伝えたい内容がかえって伝わりにくくなっているとも言えるのではないかということです。

記録することを発明した人類にとって、言語は不可欠なものではあります。
しかし、言葉という枠の外にはみ出てしまった、豊かなニュアンスを伝えるためには、時々、その枠をはずす必要があるのかもしれませんね。



応急処置として、私はとりあえず、よい類語辞典を探そうと思います。(笑)

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