2015年9月11日金曜日

意識の根底

疲れた時などに突如、目が覚めたように「両極に極みの世界」と向き合うことがある。
「私は今なにをしているのだろう」よりもずっと深いなにものかである。

生来、不均衡なものを内側に抱えて生きてきた(らしい)私だが
そのせいかどうかははっきりとは判別しがたいけれど、
どうも周りとはずいぶん違う景色が見えているらしい。

普段は適当に、
周りに合わせて相槌を打ち、他愛もない話を展開し、周囲への探求をそこそこ・ほどほどにし、与えられるものを受け取り、欲されたものを渡すという一連の作業を
ただ粛々と、淡々とこなすだけである。
一見は周りと何ら変わりないように振る舞えているはずだ。自負もある。

しかし感じ方としてどうも違うらしいのが「感情」である。正直かなり苦手だ。
そうは見えない?…そうは見せないからに決まっている。私は「自然」だと自己暗示にかけているからだ。


それが時々、うっかり、ふと醒める。

私の「感情」や「行動」はいくらかの複雑な、
そして悲しいほどに単純な機構によって再現されただけのものにすぎない現象で、
たとえば好意や幸福、悲嘆、憤怒、嫌悪、そして名もない心の移ろいまでもが
見えざる「自己でない自己」の、しかし「利己的」な選別により概念化してあらわれただけにすぎない何かであり、
その操りの糸、感情など、を排した自己でしか自己でいられないのではないかと。
いや、考えている事自体が「感情」と切り離せないものだとしたら、
私がそう思っていた「自己」の存在は有り得ないのではないかと。

人間は考える葦であるとあるが、
人間は考えても葦でしかないのだろうなと。

簡単にいえば、自己と他者の境界線が非常に曖昧になる。
とても恐ろしい感覚だ。

暗闇で手を広げて立つとか、訳の分からない重圧の空間の中にいるような、というよりは、「溶けて霧散している状態になること」が近い。
一個体として存在している気が全くしなくなるのだ。
その瞬間に、
すべてのものは収束し、意識なく流れながら、遠いものから順に距離が縮まっていることを実感する。(頼りになるものなどとっくに何もなくなっている。)
不規則な波紋がだんだんと均衡を求めて、それぞれの高低が複雑につながり、絡み合いながら消えていくような景色に近いだろうか。

そこには本当になにもない。あるということしかない。もはやあるということさえない。
そういう世界が突然、私を飲み込んで気付かせてしまうのだ。
いかなる執着も所詮は存在しえないというのに、なぜこんな茶番を続けていられるのだろうかと。
私だけでない、他のモノも皆、「ないもの」に「一喜一憂」するのはなぜかと。


気付いたことに対して悲しみを抱いたところで、私の自己暗示はまた復活する。
自己暗示?とんでもない、こっちが普通だと。
もっともらしく思案したところで、なんの生産性もないではないかと、「自ら」を「叩き起こす」。

あの深淵は何だったのだろうと振り返るが、
わからないということがわかり、また「曖昧でない世界」で適当に生きはじめる。






これらの一端を言葉に表すこと…というよりそれが伝わると仮定すること…が難しすぎて、
昔からたびたびある経験であるにもかかわらず誰にも言わなかったが
ひとまず言葉にできた??ようなのであげてみることにした次第。

走り書きのようなものなので、温かい目で見てほしい。

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